モダニズムの先を見据えて/ガールズケイリンのデザイン

かれこれ 30 年の競輪歴になる。家庭を持ち、デザイナーとして独立したばかりで、無になれる時間がそこにはあった。それ以来、隠れ家のようにお世話になっている。費やした額を計算する野暮はしないが、お金では買えない緊張感が常にある。芸は身を助ける、と言うが、何故か競輪の社会連携プロジェクトが私の研究室に舞い込んできた。私が競輪通であることは誰も知らないはずなのに…。

初めは取手競輪のアートプロジェクト、オリンピック支援競輪、グランプリ競輪のユニフォームデザイン、ガールズケイリンのアートディレクション、そしてリオ五輪のオリンピックユニフォームまで、立続けに依頼いただき、競輪の神様はいるなと感じた。中でもガールズケイリンはとても思い出深い。

当時 J K A の会長であった作家の下重暁子さんから、「今度女子競輪を復活させたい、デザインをお願いできないか」と連絡をいただいた。人気になるかわからない企画だけに予算はほぼない、しかし下重さんの思いに感銘し引き受けた。会長就任から競輪競技の魅力を感じ取られていて「日本の文化として定着させたい」、というお考えをお持ちだった。

実は女子競輪は昭和 39 年まで存在していた。しかし選手レベルに開きがあるなど、ギャンブルとしての醍醐味がなく廃止された歴史を持っていた。加えて当時競輪の売り上げは右肩下がり、したがって異を唱える有識者も相当にいたはずだ。しかし女性の時代はそこまできていた。会長の考えにブレはなかった。

ロゴマークのデザインは大輪の花、バンク、女性のお尻から再構成、また色調は SNS 時代を意識した夜光のグラデーションとし華やかながら強さを表現、何より女性アスリートに敬意をこめた。

日程がタイトの中、出来上がったデザインをさっそく会長にお見せすると「私のガールズ競輪のイメージにぴったり」とトップダウンでご決断いただいた。

その数ヶ月後の 2012 年 7 月平塚競輪場、女子競輪は「ガールズケイリン」として 48 年ぶりに正式に復活、その光景は今でも目に残る。昨今ではオリンピック候補選手などトップアスリートも加わり、“迫力あり華もある” 新しい競輪レースの象

徴的な存在となった。下重会長の功績は大きい。

長濱 雅彦